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およそ【文学】とは言い難いけれど。

みなさまのコーヒーブレイクのおともにでもなれば・・・。

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~ 第二章  4 ~


      4
 
 
 その夜、萩原は昨夜鍋島と来たピアノ・バーへ、今度は
一人でやって来た。
 仕事を切り上げたのは九時半で、それから山本と二人で
遅い夕食を摂った。
 二人とも疲れていて、料理屋でもほとんど話さずにビールと
何品かの料理を平らげた。そして店を出ると彼らは、まだ
一週間が始まったばかりなのだという考えがお互いの中に
あるのを確認し、次の店へと誘い合うことなくそのまま別れた。
 しかし萩原はこのバーへ足を運んだ。今夜はどうしても一人で
飲みたいと思ったのだ。

 次から次へと持ち込まれてくる、終わりのない仕事に追われる
毎日。それだけなら報酬をもらっている以上は仕方のないことだと
まだ割り切れるが、後輩の尻拭いに手を取られ、先輩からは
出世が早いと妬まれる。いったい俺が何をしたって言うんや。
上の方針に従って文句も言わずにがむしゃらにやってるだけや
ないか。黙ってるからって、これ以上困らせんといてくれ──。

 本来なら萩原はもっとわがままな人間のはずだった。
お天気屋で勝手気ままで、それでいて人一倍頑固者だった。
かつては、親友の鍋島たちがそんな彼の性格にたびたび
腹を立てていたものだ。それがいつの間にか、何よりも
協調することを大切にする人当たりの良い人間になって
しまった。それはそれで決して悪いことではないのだろうが、
萩原は何だか自分がとても小さな人間になってしまったような
気がしたのだ。
 いったい俺はいつからこんなに「普通」になってしまったのか。
きっと、それまでの彼を黙って支えてくれていた智子と別れて
からだろう。

 バーの長いカウンターでグラスを傾けながら、萩原はぼんやりと
そんなことを考えていた。斜め前方に置かれて いるグランド
ピアノでは、昨夜と同じピアニストがスタンダード・ジャズを
演奏している。萩原は何気なく腕時計を覗いた。十一時半だった。
「──どなたかと待ち合わせですか?」
 カウンターの中から、それまで黙ってグラスを磨いていたいた
バーテンが話しかけてきた。
「いや、違うよ」と萩原は小さく笑った。「ピアニストの女性も、
遅くまで大変やなぁと思って」
 ああ、とバーテンはピアニストを見た。「もう終わりますよ。
十二時までですから」
 萩原はふうん、と返事をしてピアニストを眺めた。細くて
柔らかそうな、カールさせた髪を素肌の肩に垂らし、流れるような
曲線にカットした黒いベルベットのロングドレスを着ていた。
口許に微かな笑みをたたえたままであまり表情を変えることは
なく、穏やかなタッチで鍵盤を叩いている。年齢は三十を
ちょっと過ぎた頃だと思われた。
 曲が終わった。数少ない客から拍手がおこり、萩原もゆっくりと
手を叩いた。 
 ピアニストは立ち上がって軽く膝を曲げ、頭を下げた。そして
彼女がゆっくりとピアノから離れると、ピアノの真上のピンスポットが
消えた。やがて店内にはヴォーカル曲が流れ出した。
 萩原は手許に視線を戻した。スコッチのオン・ザ・ロックは
ほとんど氷が溶け、水割りのようになっていた。どうしても
飲みたいと思ってやってきたのに、実際はあまり酒は進んで
いないのだった。
「──美咲(みさき)ちゃん、お疲れさま」
 萩原が顔を上げると、さっきのピアニストが彼の三つ隣の
椅子に腰掛けようとしているところだった。さっき着ていたのとは
違う黒のワンピース姿で、同じく黒のハンドバッグをカウンターの
上に置くとバーテンに微笑んだ。
「何か作ろうか?」とバーテンが訊いた。
「ええ、じゃあマルガリータを。フローズンで」低い声だった。
 萩原はさり気なく彼女を見た。額から頬の半分が髪で隠れた
横顔から、搾り出すような溜め息が漏れたのを聞いて、彼は
この女性もただ仕事に疲れているだけではないのだろうと
思った。
 女性の前にコースターが出され、その上にライムの刺さった
白い飲み物が置かれた。
 ピアニストはグラスの足下に左手を添え、右手で短いストローを
持ってグラスの液体を軽くかき混ぜると一口飲んだ。そして
バーテンに向かってにっこりと微笑んだ。
 美人だな、と萩原は昨日の再確認をした。
「あら……やだ、煙草を切らしちゃったわ」
 ピアニストはバッグの中でごそごそと手を動かして呟いた。
「うちは置いてないからなぁ。買ってこようか? 何の銘柄?」
 バーテンが濡れた手を拭きながら言った。
「──いいわ、どうせもうすぐ出るから」
 萩原は自分のグラスの横に置いた煙草の箱に手を置くと、
すっと右に滑らせた。煙草は音もなくまっすぐにカウンターを
走り、ピアニストの左手のそばで斜めになって止まった。
 あら、とピアニストは煙草を見た。そして萩原に顔を向けた。
「申し訳ないわ。結構ですのに」
「いいんですよ。その銘柄で良かったらどうぞ」
 萩原は照れ臭そうに微笑んだ。彼はまずこんな気障(キザ)な
ことをする男ではないのだが、さっきの彼女の溜め息が、彼にはどうにも身近に
感じられたのだ。
「ありがとう」
 そう言ってピアニストはじっと萩原を見つめた。
 萩原も彼女を見た。その瞳は、彼と同じ色の光を放っていた。
 今夜は彼女と過ごすことになるだろうと、萩原はこのとき直感した。
 
 その直感通りになった。
 黒とグレーを基調とした落ち着きのあるインテリアのホテルで、
二人はベッドの上で寄り添っていた。
 彼女の名前は加納(かのう)美咲と言い、東京生まれの三十二歳
だった。芸大のピアノ科を卒業してしばらくは音楽教師をして
いたが、やがてジャズ・ピアノの世界に入り、スタジオ・ミュージ
シャンとして数数のジャズ・シンガーのレコーディングに参加した。
しかしそれも今ひとつぱっとしないうち、あるドラマーと恋に落ち、
結婚した。そしてわずか二年で破局。亭主の女癖の悪さに
愛想が尽きたのだ。彼女は思い出のすべてから逃れるように、
五年前に大阪にやってきた。その直後に知り合った男性と再婚、
それもまた三年と続かずに終わってしまった。
  今ではただ流されて生きるだけの女になってしまったと、
美咲は自分に呆れているように笑って言った。
 萩原はバーで彼女の漏らした溜め息が、妙に身近に思えた
理由が分かったような気がした。
「──そう。あたしたち、似たもの同志なのかも知れないわね」
 萩原の左腕に抱かれながら、美咲はブランケットから白い
肩を出して言った。
「何もかもが、ってわけではないやろうけど」
 萩原は美咲を見下ろした。 「きみの目を見たとき、そんな
感じがしたんや」
「どうして離婚を?」
「逃げたい一心、あのときは。ただのわがまま」
  萩原は答えると小さく笑った。
「後悔してるのね」
「後悔はしてないよ。あまりにも身勝手なことをしたと思うだけ」
「それも後悔って言うのよ」と美咲も頬を緩めた。「あたしは
後悔なんてしてないわ。もう金輪際、結婚なんてごめんよ」
「俺もそう思ってる」萩原は彼女の肩を撫でた。「な? 似たもの
同志やろ?」
「ねえ、やってみたらどうだろ?」
 美咲は嬉しそうに瞳を輝かせて萩原を見上げた。
「何を?」
「さっきあなた言ってたじゃない。結婚とか家族とか、そういう
先のことを考えないで済むんだったら、もう一度誰かのことを
好きになってみたいって」
「それを俺ときみで、ってこと?」
「あたしたち二人ではダメよ。相手に何も期待してないってことが
分かってるもの。そうじゃなくてほら、何て言うか──結婚とか、
そういうことを抜きでもどんどん相手に惹かれていくような恋よ。
それでいて本当に愛し合うと、結局はやっぱり望むように
なるでしょ? その相手と一緒に暮らすことを。そういうものでしょ、
本当の恋愛って」
 美咲は夢中で話した。
「女って、やっぱりロマンチックなんやな」
「いいじゃない、そんなこと考えてみたくなるものなのよ。
ひどい思い出ばっかりだと」
「きみと俺はどうなる?」萩原は美咲を抱き寄せた。「今夜
だけっていうのは惜しいかも」
「そうね。成り行きに任せましょうよ」
「先は考えへんってことやな」
 美咲が萩原の頬に手を添えて、二人はキスをした。それから
萩原は彼女の首元に唇を寄せ、やがて身体を重ねた。

 こうして二人は急速に愛を感じていった。

 しかし、それが永遠のものだとは思っていなかった。

 

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第二章 5 


 

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甘く危険な感じのする恋ですね

エリートである主要人物萩原とピアニストとの行きずりの恋。甘く危険な香りは事件への関わりがあるからとも感じます、
  • from 狼皮のスイーツマン :
  • URL :
  • 2010/04/29 (22:03) :
  • Edit :
  • Res

狼皮のスイーツマン様

いつもありがとうございます。
最初は、こんなことって実際にあるのかな?と
思いながら書いてましたが、どうなんでしょうね。
古い映画のような…。

さて、この後どうなりますやら。

ありがとうございました。
  • from みはる :
  • 2010/04/30 (19:09)

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