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およそ【文学】とは言い難いけれど。

みなさまのコーヒーブレイクのおともにでもなれば・・・。

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~ 第四章  4 ~


                           4


 翌朝の捜査会議で、山口紫乃が九月の終わり頃からミナミの
クラブで働いていたことが、一係の島崎巡査部長から報告された。
「クラブの名前と所在地は」
 植田課長が訊いた。
「宗右衛門町の『ドルジェル』です」
「──つながるねえ」
 最後列の席で、芹沢は小声で鍋島に言った。
「うん」
 頬杖をついて煙草を吹かしていた鍋島は軽い返事をした。
「特定の客はいたんか?」
「特定と言えるかどうかは分かりませんが、週に一回程度、
四十前後のヤクザ風の男が閉店一時間ほど前に顔を出して、
彼女と一緒に帰っていたそうです」
「その男が誰か分かってるんですか」誰かが訊いた。
「まだ分かりません。店の連中もよう知らんと言うてました」
「──河村の仲間か、どっかのヤクザか」
 鍋島は独り言のように呟いた。
「四十前後のヤクザ風なんて、大阪のおっさんの半分がそうだろ」
 芹沢は素っ気なく答えた。「ここにだってウジャウジャいるぜ」
「ちょっと待て、そこの店は確か──」
「河村忠広の女が勤めてる店です」
 課長の言葉に芹沢が答えた。
「河村……そうやった。ということはその四十男が河村か」
「いや、河村は確かに元暴走族ですが、風貌はヤクザっぽくは
ありません。若者相手の方のクラブを経営してますから、むしろ
やさ男と言う感じです」
「おまえとええ勝負か」
 すぐ前に座っていた湊巡査部長が振り返って笑った。
「あの程度じゃ俺の相手にゃなりませんよ」
 芹沢は肩をすくめてふんと笑った。
 島崎が報告を続けた。「それから、医師の診断によると
山口紫乃は覚醒剤の常習者であるらしいことが分かりました」
 芹沢はちっ、と舌打ちした。
「奇行の原因はそれやな」
 鍋島は短くなった煙草を口から抜くと煙を吐いた。「ヤクを
その男から買うてたんかな」
「これで杉原さんと山口泰典がコソコソ動き回ってたことの
説明がつく」
「ああ。河村も一枚噛んでるな」
 そのとき、ドアがノックされて、刑事課の庶務を担当している
婦警の市原香代が顔を出した。
「失礼します。鍋島巡査部長にお電話です」
 香代が言うと、その場の全員が鍋島に振り返った。鍋島は
いくぶん居心地の悪さを感じながら、課長に会釈して席を立った。
 ドアに向かう途中で誰かが、「携帯持ってへんのかいな」と
言ったのが聞こえた。

 部屋を出ると、鍋島は香代に訊いた。
「誰から?」
 香代はくすっと笑うと、その答えを耳打ちで鍋島に教えた。
「……アホか」
 鍋島は電話の相手に呆れながら廊下を戻った。
 デスクに戻った鍋島は、香代に礼を言って保留中の電話の
受話器を取って耳に当てた。
「もしもし」
《鍋島さん?》男の小声が囁いた。
「……もうちょっとマシな名前を思いつかへんのか。スズキイチロー
なんて、偽名がバレバレや」
 鍋島は溜め息混じりに言った。「おまえに詐欺は無理やな」
《すんませんな。咄嗟に出てけぇへんかったんや》
 声の主はタツだった。
「めずらしいな。そっちから掛けてくるなんて」
《……手短に言いまっせ。あんたに頼まれた河村を探ってたら、
ちょっと危なっかしいオマケがついてきましたんや》
「どういうことや」
《河村のやつ、ゆうべから子分連れてずっと徹マンやってるん
やけどね。その麻雀屋の隣の路地に、三十分ほど前から妙に
意気込んだガキが潜んでるんですわ》
「意気込んだガキ? 何やそれ」
《知るかいな。でもあのガキの面構えはちょっとただごとでは
ないで。俺もさっきまで麻雀屋にいて、今は店には河村の
一行しか残ってないはずやから、ガキはおそらく河村に何か
仕掛ける気や》
  タツは早口で言った。《鍋島さん、ええから早よ来なはれ》
「分かった。場所どこや」
《千日前(せんにちまえ)。ビックカメラの裏手の麻雀屋。俺は外の
公衆電話からです》
「すぐに行く」
《俺、このまま消えまっせ。そろそろ感づかれそうでヤバいし》
「ああ、またこっちから連絡する。ありがとうな」
《……あんたも気ぃつけて》

 電話を切った鍋島は大急ぎで会議室に戻り、ドアを開けると
振り返った課長に言った。
「すいません、ちょっと抜けさせて下さい」
 そして芹沢を見て、「行くぞ」と頷いた。芹沢は渡りに舟と
ばかりに立ち上がって後ろのドアに向かった。
「待て、どこへ行く? まだ終わっとらんぞ!」
 課長は怒って叫んだ。──が、効き目はなかった。


 二人が千日前に着いたとき、アーケード街の店のほとんどは
開店前で人通りも少なく、閑散としていた。
「この筋を入るんじゃねえか」
 大手家電量販店から二筋ほど南側の路地に立ち、芹沢は
奥を伺いながら言った。
「みたいやな」
 鍋島は少し背伸びをして、路地の奥まで見通そうとした。
「あった、あの看板や。行こ」
「待てよ、ガキが潜んでるって言ってたんだろ。ずかずか行くな」
「……俺が刑事に見えるか?」
 鍋島はジャンパーのポケットに突っ込んだままの両手を広げて、
自分の格好をアピールして見せた。乳白色のサテン地に紺の
ラインの入ったスカジャンの中は紺のキーネックTシャツ、ボトムは
ブラックジーンズに黒のショートブーツ。しかも今日に限って
無精ひげを生やしている。いつもながら、職業とはほど遠い
イメージのスタイルだった。
「……まあ、一見して見破れる奴はいねえだろうけどよ」
「やろ。ちょっと見てくる」
 飲み屋の袖看板が重なり合い、前夜のゴミが散乱する路地を
鍋島は奥へと進んでいった。少し遅れて芹沢が続く。

 軒下に赤提灯がぶら下がる一品料理屋の二階が目指す
麻雀屋だ。
 牌の混ざり合う独特の音が窓越しに聞こえてきて、静かな
路地にも響きわたっていた。
 鍋島はその前まで行くと、隣の店との間に出来たさらに細い
路地を覗き込んだ。
「誰もいてない」
「タレコミ屋の見間違いじゃねえのか」
「あいつにガセを掴まされたことはない。確信のあることしか
言わへんから」
「じゃあ、消えちまったか」
 そのとき、上の窓からぎゃあっ、と言う大声が聞こえてきた。
 そしてすぐに椅子か何かの倒れたような音と、その間を
縫うようにガラスの割れる音がした。
「……遅かったか……!」
 二人は一瞬だけ顔を見合わせ、すぐに料理屋の戸口の横から
上の麻雀屋に続く薄暗い階段を駆け上がって行った。

 磨りガラスの入った安っぽいドアを開けると、小さなレジ
カウンターの中で中年女が屈み込んでいた。飛び込んできた
二人を見て、強張った顔をさらに引きつらせた。
「おばちゃん、ちょっと人捜しや」
 鍋島がそう言って、二人は煙草と酒の臭いの充満するフロアへと
向かった。
 全部で十ほどある麻雀卓のうち、奥にある窓際の一つの
周辺で騒ぎは起こっていた。三人の男に向かって、一人の
少年がごついナイフを突きつけている。三人のうち一人が
もう一人の男をかばうように立ち塞がり、少年を睨みつけて
いた。残りの一人は右肩から血を流し、ガタガタと歯を鳴らして
腰を抜かしている。
 かばわれている男は河村忠広だった。
「……あいつや。とうとう会えた」
 鍋島は男たちを見ながら呟くと、そちらへ向かった。
「おい、何してる」
 男たちは一斉に二人を見た。振り返った少年は、原田に
見せられた山口泰典の写真の顔だった。
「ちくしょう、あのおばはん、サツに……!」
 河村はそう叫ぶと雀卓の牌を掴んで二人に向かって投げ、
自分をかばっていた男の腕を押し退けて窓に向かった。
 芹沢が追いかけようとしたが、残された男がしがみついてきて
邪魔をした。
 山口はしりもちをつきながら後ずさりをしていたが、なんとか
立ち上がると店の入口に向かって逃げ出した。鍋島が後を
追おうとすると、どういうわけか肩に怪我を負った男に
体当たりされ、前のめりにひっくり返って顔面を思い切り
床に打ちつけた。
「くっ、なんでや……」
「離さねえか、このっ……!」
 芹沢がもがきながら言った。その間にも河村は部屋の
突き当たりまで逃げ、開けた窓ガラスに足を架けて今にも
乗り越えようとしていた。
「鍋島、表だ! 表に回ってくれ!」
 ようやく邪魔者を振り解いた芹沢は、窓際の河村を追いながら
叫んだ。
「分かった!」
 鍋島も自分に体当たりしていた男に肘鉄を食らわすと、
入ってきたドアへと走った。

 窓から飛び降りた河村の後を追って芹沢が窓枠に手を
掛けたとき、また後ろからさっきの男が飛び掛かってきて
フロアに引き戻された。そこでまた掴みかかったり振り解いたりの
格闘になり、互いに一歩も譲らない攻防が続いた。
「くそっ、しつこい、な……!」
 搾り出すような声で言いながら、芹沢は喉元に回された男の
右腕を掴み、空いた腕で男の腹に肘鉄を食らわせた。男が
思わず腕を放して屈み込んだところをさらにその顎に空手三段の
蹴りを見舞うと、男は床に崩れ落ち、そのまま伸びてしまった。
 芹沢はその様子に目もくれず、窓を乗り越えて路地へ飛び
降りた。
 しかしとうの昔に河村の姿はなく、先に表に出たはずの
鍋島も見当たらなかった。芹沢は忙しく辺りを見回しながら、
足早にアーケード街へ出た。

 そのとき、パン、パン、と乾いた銃声が二つ響いた。芹沢は
咄嗟に拳銃を抜いた。
「鍋島! 鍋島! どこだ!」
 芹沢は大声で叫び、闇雲に走り出した。
 千日前の通りに出た芹沢は、斜向かいのパチンコ屋の
隣にある派出所から飛び出してきた警官を見つけるなり言った。
「西天満署に連絡してくれ! あと救急車もだ!」
 警官は黙って頷くと、くるりと振り返って交番に戻って行った。

 芹沢はパチンコ屋と工事中の建設現場の塀との間に伸びる
通りに入った。向こうから来た女性が彼の持つ拳銃を見て
凍りついているのが、駆け足の彼にも見て取れた。
 突然、足もとに血痕が現れた。ひと目見て、たった今誰かが
ここで落としたと分かる新しいものだった。
「鍋島! どこにいる!」
 芹沢はもう一度叫んだ。しかし返事はなかった。
「まさかな……冗談じゃねえぞ……」
 血痕を追って四つ角に出た。すると、『有料駐車場』と書かれた
塀の足もとに倒れている鍋島の姿が目に飛び込んできた。
「鍋島っ!」
 芹沢は拳銃を直しながら駆け寄った。
「……くそっ、痛ぇ……」
 鍋島は肘を使ってゆっくりと起き上がり、そのままうずくまった。
「大丈夫……なわけねえか」
 芹沢は鍋島の肩を掴んで抱き起こそうとして、その手を止めた。
 左の脇腹から吹き出た血が広がり、着ているスカジャンを
真っ赤に染めていた。そしてその範囲はどんどん広がりつつ
あった。
「──りざわ、キツイぞ、これ……」
 鍋島は血だらけの手で芹沢の腕を掴んだ。
「……そうみてえだな」
 芹沢は静かに鍋島を起こし、その上半身を自分の膝で支えた。
そのとき、右の太股にも傷を負っているのが分かった。
 だが銃弾によるものではなかった。あたりには血溜まりが
出来ていて、芹沢はジャケットのポケットからハンカチを取り出し、
気休めだと分かっていたが、鍋島の腹に当てた。

 通りの向こうからさっきの警官が走ってきた。
「すぐ応援が来るそうです!」
「救急車は?」
 警官は倒れている鍋島を見ると立ち止まり、顔を強張らせて
言った。
「そちらも手配済みです……」
「おい、もう少しの辛抱だぞ」
 芹沢は鍋島の顔を見て言った。しかしその顔からは血の気が
引き、その分が腹から流れ出ているのが手に取るように分かった。
「……あいつは……?」
 鍋島は息を荒らげて言った。
「どっちのことだ。河村か、山口か」
「河村や。山口は……俺をこんな目に遭わせて逃げてった」
「そっちも逃げられた」と芹沢は舌打ちした。「ってことは、河村は
おまえに向かって発砲したんじゃねえのか」
「……ああ。おそらく、山口に……」
「じゃあいつは、おまえを刺したあと河村を追ったんだな」
「あいつ……たった二回で……刑事を半殺しの目に遭わせるや
なんて……ええ根性してる……な……」
 鍋島は途切れ途切れに言って小さく笑った。
「喋るな。俺の言うことだけ聞いてろ」芹沢は言った。「いいか。
もうすぐ救急車が来る。もうすぐだぜ。それまで何とか我慢して、
気をしっかり持つんだ。うっかり目なんか閉じるんじゃねえぞ」
 芹沢は必死で鍋島に語りかけ、何とか気を強く持たせようとした。
そしてそれはまた、自分自身に掛けている暗示でもあった。
 パトカーと救急車のサイレンが猛スピードで近づいてきた。
芹沢は警官と顔を見合わせて頷いた。
「おい、あと少しだぞ」芹沢は鍋島に振り返った。
 しかし鍋島はすでに目を閉じており、返事をしなかった。



 手術室の前の長椅子に座り、芹沢は両手を組み合わせて
俯いていた。
 鍋島が病院に運ばれて二時間が過ぎた。その間芹沢は
ずっとこうしてここに座っている。今日の彼の服装は、薄い
サーモンピンクのストライプシャツにキャメルカラーのジャケット、
ボトムはブルージーンズと言う、彼にしては カジュアルな
格好だった。そして今はそのあちこちに、鍋島の流した血が
赤黒く固まって残っていた。

 山口と河村の二人とも、その後の緊急手配網には
引っかからずに行方をくらませていた。発砲したのが河村か
どうかの確証は得られていなかったが、河村の手下の一人は
肩に怪我をして鍋島と同じ病院に収容されていたし、もう一人も
公務執行妨害で手配され、そのうち尻尾を出すだろうと思われた。
そうすれば河村の拳銃所持についての嫌疑がはっきりするし、
一方では捜査令状が取れ次第、河村の自宅とクラブ『マグナム・J』
に乗り込むことになっていた。

「芹沢くん……!」
 突然名前を呼ばれて、芹沢は顔を上げた。
 長椅子から少し離れたところに、ひと目で長い距離を走って
きたと分かる荒い息をしている、スーツ姿の髪の長い女性が
立っていた。その瞳は何かを探しているように左右に泳ぎ、
潤んでさえいる。
 鍋島の妹の純子(じゅんこ)だった。

「純子ちゃん」と芹沢は立ち上がった。
「お兄ちゃんは?」
「今、まだ手術中なんだ」
 そう言って芹沢はそばの大きな鉄の扉の上に点灯した
『手術中』の照明を見上げた。
「それで、どうなの? 助かるの?」
「ああ、大丈夫さ。内臓を損傷するほどの深手じゃなかったから。
ただ、ちょっと出血がひどいみたいで、輸血に時間を取られて
るって。さっきここから出て来た看護師が言ってたよ」
「良かった」
 純子は肩を使って大きく溜め息をつくと、芹沢に促されて彼の
隣に腰を下ろした。
「ごめんよ、俺も一緒にいながら」
「芹沢くんの責任と違うわ。お兄ちゃん、運が悪かったんよ
……お父さんがそう言うてた」
「親父さんと連絡ついたのか?」
「うん、芹沢くんが電話くれたあとすぐに連絡がついたわ。
芹沢くんがうちの家に掛けてくれたときは、出先からまだ
帰ってなかったみたい」
「で、こっちに来られるって?」
「ううん」と純子は首を振った。「これも刑事の宿命やから、
そんなことでいちいち家族が騒ぐことないって。どうせ
お兄ちゃんも来て欲しくないやろうしって」
「往年の刑事気質(かたぎ)ってやつかな」
「違うわ。父子(おやこ)のつまらない意地の張り合いよ」
 いくぶん腹立たしげに言って足下に視線を落とした純子を、
芹沢は一種の共感を覚えながら見つめた。
「──お兄ちゃんも、いつかはこんな目に遭うって覚悟してた
みたいやけど……」
「警官だったら、たいていの連中がしてるよ」
「お兄ちゃん、ああ見えて臆病なのよ。ほら、今年のお正月に
コンビニ強盗に腕を切られたときも、あとで結構弱気なこと
言うてたもん」
「あのときは俺も足の骨を折ったし──だから、この次もし
やられるとしたら、それはきっと俺だって思ってたんだけど」
「何で?」
「俺は射撃が下手だからさ」
「本当?」
 芹沢は苦笑して頷いた。しかしすぐに顔を曇らせ、俯くと言った。
「──実は、今抱えてる事件の被害者もうちの署に関わりの
ある人間でね。それでみんなちょっと参っちまってる。だから
ここで鍋島にまでもしものことがあると、相当キツイ話だななんて
思ったりして……」
「ふうん」
「あ、悪りぃ。縁起でもねえよな」芹沢は慌てて手を振った。
「ううん、芹沢くんの気持ち、あたしにも分かる」
 そう純子は言ってくれたものの、どう考えても失言だったと
いうバツの悪さを拭うことはできなかった。我ながら、相当
こたえているようだ。

 そのとき、さっき純子が来たのと同じ方向から、今度は
高野警部補と島崎巡査部長が早足でやってきた。

 芹沢が振り返ると、二人は神妙な顔をして頷いた。
「どうや、まだ終わりそうにないか?」
 高野が心配そうに訊いた。
「ええ、まだ」と芹沢は立ち上がった。「それで、奴らの方は?」
「あかん。緊急手配の範囲を広げてるんやが、まだ掛かったって
いう連絡は入ってない。この分やと、どっかに潜伏してるな」
「そうですか」
「それより芹沢、おまえに言うとかんならんのは──」
「分かってます。今回は明らかに俺たちの暴走です」芹沢は
即答した。「このままもし奴らに逃げおおせられた場合は、
いつでも手帳は返す覚悟です」
「……分かってたらええんや」と高野は溜め息をついた。
「こちらのお嬢さんは?」
 島崎が純子を見て言った。
「鍋島の妹の純子です。兄がいつもお世話になってます」
 純子はぺこりと頭を下げた。
「……ご心配でしょうが、彼を刺した男は必ず逮捕しますから」
「はい」
「ところで取れたぞ、令状」高野が言った。
「そうですか」芹沢の顔に生気が戻ってきた。「じゃあ──」
「ああ。今からガサを掛ける」
「踏み込んだところで奴らはおらんに決まってるが、何か
出てくるかも知れん。それでおまえを迎えに来たんや」
「俺も行っていいんですか?」
「課長はあかんと言うたが、この際人手は一人でも無駄に
できんと言うて俺が突っぱねた。だいいち、ほっといたところで
おまえは一人でも動くやろ」
 高野は苦笑した。
「当然です」
 芹沢は頷くと、純子に振り返った。「純子ちゃん、俺は行くけど、
ここ一人で大丈夫かい?」
「大丈夫。手術が終わったら連絡するわ」
 純子は気丈に言うと芹沢をじっと見つめた。「芹沢くんも
気をつけてね。間違ってもお兄ちゃんのために無理なんて
せんといて」
「分かってる」
 そして三人は静かに、しかし足早に廊下を去って行った。
 純子は彼らの後ろ姿をぼんやりと眺めていたが、やがて
我に返ったようにくるりと振り返って手術室の扉を見つめた。



 おとといからねぐらにしている公園の、生い茂った常緑樹の
せいで昼間でも薄暗く人気のない手洗い場で、山口泰典は
血のついたシャツを洗いながら全身を駆けめぐる激しい恐怖に
おののいていた。

 人を刺してしまった。今度は本当に刺してしまった。盗みに
入った先で家人に見つかり、思わずナイフを振り回した三年前
とは違って、今度はそれが目的で人に刃物を突きつけたのだ。
 しかも、肝心のあの男には何もできず、やったのはあいつの
子分と──おそらく警官。

 警官は死んだかも知れない。子分を刺したときよりも、
はるかに手応えがあったから。
 追いかけられて、必死で逃げて、もう恐怖と疲労で足が
言うことを聞かなくなって、とうとう何かにつまづいて倒れたとき、
彼はすぐ後ろに警官の姿が迫ってきているのを視界の一角で
捉えた。
 咄嗟に「刺せ」と頭の中の自分の声が確かな意志を持って
言い切り、それに衝き動かされたように彼は振り返った。
立ち上がると同時にナイフを握り締めた手が前に出て、先端を
警官の太股に突っ込ませた。硬めのチャーシューを
切ったみたいな錯覚を覚えた。
 呻き声とも叫び声ともつかない音を漏らし、途端に動きが
止まった警官の腹をめがけて、何の躊躇もなくもう一度刺した。
幅3cm、刃渡り10cmほどのイタリアンナイフの、その刃の
半分以上が相手の身体の中に埋まったような気がする。
 目の前で見た警官の顔は一瞬、真っ赤になったがすぐに
暗く歪み、そしてなぜだか分からないが、まるでどこかに忘れ物を
してきたことを思い出したときのようながっかりした表情になって、
「……ちょっと待てや」と呟いた。

 その意外さに彼は驚き、両手を離してしりもちをついた。
 後ずさりしようとしたが、腰が抜けていて動けなかった。

  警官はゆらりと身体を揺らすと一歩だけ前に出たが、そこで
すとんと両膝をついた。信じられないことに自分でナイフを抜き、
まるでそれ自身が勝手に彼の腹に突き刺さってきたかのように
恨めしげに見つめていたが、引き抜いた後の傷口の痛みに
耐えかねてか、放り投げるようにして手から離したかと思うと、
脇腹を押さえてうずくまった。
 その拍子に、ボタボタと音を立てるように血が落ちた。

 彼はようやく我に返った。逃げなければならなかったのを
思い出した。足もとのナイフを掴んで、アスファルトから
引きちぎるように身体を起こし、一目散に走り出した。

 後ろを振り返りたくなかった。もしそうしたら、またあの警官が
追いかけてきているのを見てしまうような気がしたからだ。
 もしもあの警官が、自分の知っている警官と同じ種類の
人間だったら、それはもう間違いなく彼が逃げられないと
いうことなのだった。
 肝の据わった警官ほど強くて、恐ろしいものはない。こちらが
どんな手で太刀打ちしようと、それはすべて無駄なのだ。彼は
それを知っていた。
 三年前までは分からなかったが、その後つくづく思い知らされた。
 杉原信一という警官によって、彼は警察官に対するそれまでの
甘い思い込みを捨てざるを得なくなったのである。

 気のせいかも知れないが、あの警官も杉原と同じ匂いが
したのだ。

 彼は無心でシャツを洗った。返り血はなかなか落ちなかったが、
それでもやめようとしなかった。何かに没頭していなければ
自分が壊れてしまいそうで怖かったのもあったが、それよりも
ただ純粋に、あの警官の血を落としてしまいたかったのだ。


 そのうち、彼は泣き出した。


 



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