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およそ【文学】とは言い難いけれど。

みなさまのコーヒーブレイクのおともにでもなれば・・・。

~ 第一章  4 ~

         4


 夜になって、昼間の暖かさが嘘のように肌寒い微風が身体に
まとわりつき始めていた。
 日中の陽気に惑わされて薄着をしているとうっかり風邪をひいて
しまうのがこの季節だ。もちろん、九時近くにもなってこんな屋外の
駐車場に一時間以上も立ちっぱなしという状況が寒さの感覚を
増長させていることは分かっていた。
 そうしなければならない義務があるでもなし、誰かに強要されている
わけでもないのだから、さっさとやめることもできる。
 むしろ、そうした方がいいのだ。その方が、あらゆる意味で救われる。
 何も知らないふりをして、また明日から今まで通りに振る舞っている
こと。それが一番平和で、誰も傷つかない──三上麗子は頭の中で
そう考えながら、それでもそこを動こうとはしなかった。

 本当は、それが一番不幸なことだと知っていたからだ。

 だから彼女はここに立っているしかなかった。進むことはもちろん
無理だが、今となってはもう退くこともできなかった。


 北大阪急行江坂(えさか)駅から少し東に逸れたところのフレンチ・
レストランの駐車場の隅っこで、高速道路の高架の陰に隠れて
じっと店のドアを見つめている。頭上を行き交う車の走行音だけが
彼女の耳を支配し、他には何も聞こえない。
 そして十メートルほど離れた店を出てくる客のすべての顔が分かる
よう、普段外出時にはしない眼鏡を掛けていた。
 それはまた、目的の相手から自分をカムフラージュするための
意味もあった。

 そしてまたここには、昼間、親友の萩原が、麗子が鍋島に気のある
ようなことを主張して譲らなかったのを、頑として受け入れなかった
理由もあった。

 煉瓦造りの建物の中央に位置する、上部がアーチ型になった
黒光りのする木製のドアが開いて、十五分ぶりに客が出て来た。
 そして、その二人連れこそが目的の人物だった。
 麗子は少し後ろに下がって、二人に気づかれないように高架の闇に
紛れ込んだ。
 男女の方は、レストランの玄関灯に照らされてはっきりとその姿を
確認できる。大きな白い襟の付いた淡いピンク色のツーピースに
同じようなヒールを合わせた、肩より少し長いストレートヘアの
二十二、三歳くらいの女性と、ダークグレーのスーツにノータイの
ドレスシャツの襟元を開いた、すらりと背の高いインテリ風の男。
男の年齢は三十一歳。麗子は知っていた。二人は穏やかに微笑んで
互いを見つめている。
 そしてドアから少し歩いたところで女が手にしていた薄手のハーフ
コートを羽織ろうとすると、男がそれに手を貸した。
 昼間あんなに暖かかったのにこうしてコートを用意してきているところを
見ると、二人の待ち合わせの時間は夕方以降だったのだろう。麗子の
知る限りでは、男は今日の午後から身体が空いていたはずだから、
女に合わせたのかも知れない。
 そうすると、この女は学生ではなく社会人か……。

 どこからどう見ても、幸せそうな恋人同士だった。

 いいじゃないの、と麗子は思った。
 お似合いだわ。素直で優しそうな、可愛い女性(ひと)。こういう子の
方が、あなたには必要なのかも。勝ち気で可愛げの無い女より。
──ねえ、飯塚(いいづか)くん。

 やがて二人は麗子の立っているのとは反対側にある、駐車場の
奥へと歩いて行った。腕を組み、ぴったりと寄り添いながら。

 麗子は俯き、眼鏡を外した。これ以上見ていたくないという思い
からではなく、成すべきこと、確かめるべきことが済んだという、
いわば仕事帰りの決まった仕草のような手慣れた動作だった。

 しばらくすると車のエンジン音がして、たった今二人の消えた方向から
一台の乗用車が現れ、麗子のいる高架下の道路脇を過ぎて通りへと
走り去った。もちろん麗子の存在に気づいた様子はなかった。
そんな緩やかなスピードではなかったし、だいいち車内の二人は
外の様子に気が行くような雰囲気ではなかったようだ。
 運転している男──飯塚瑛二(いいづかえいじ)に寄り掛かるようにして
肩を抱かれた女。この二人の姿が、駐車場出口のすぐそばに立つ
街灯の下を通り過ぎるときに車内にはっきりと浮かび上がり、そして
麗子に引導を渡したのだから。

 車がどんどん小さくなり、テールランプが他の車のそれと見分けが
つかなくなるまで、麗子はただ見送っていた。

 

 鍋島勝也は二十八歳で独り暮らしの独身男性だが、仕事中でない
限りは夕飯を外食で済ませることは滅多になかった。

 その上、コンビニの弁当やスーパーの総菜などにもほとんど手を
つけたことがないという、今どき貴重な男だった。
 つまり、外食で済ませざるを得ない昼食以外は、あくまで自炊が
彼の主義なのである。滅多にない休日や、仕事が早めに終わりそうな
ときには時間の許す限りまめに買い出しに出掛け、それぞれ最も
適した方法で保存しておく。しかし決して買いすぎず、おまけに冷凍食品
にもほとんど頼らない。
 そんな、近頃は専業主婦にだってなかなか出来ないことが、彼には
実践できていた。

 別に家事が得意なわけではない。掃除は苦手だし、洗濯物もつい
ため込んでしまう方だ。しかし料理に関しては、どんな手間も苦に
ならない。もしも大学に行かず、そして警察官になっていなかったら、
きっと調理師の免許を取っていただろうと常々彼は思っていた。
 十年くらい修業をして、今頃どこかで小さな店でも持とうとしていた
かも、と。
 絵空事ではあるけれど、近頃よくそんなことを考える。
 特に、父親に対する憎悪をあっさりと行動に移し、けろりと爽快な
顔をした子供を目の当たりにした、今日みたいな日には。

 しかしその入口は、決して興味から始まったものではなかった。
 ただ必要に駆られて包丁を握ったまでだ。十三歳で母親を亡くし、
四つ年下の妹が高校に入るまでのほぼ六年間、自分と祖父、妹、
父親の四人分の食事を作ったその実績が、今の彼をここまでに
したのだ。
 今夜は冷蔵庫の残り物を整理して、烏賊、帆立などの魚介類の
マリネ風サラダに海老とブロッコリーのリゾットをほとんど一時間
掛からずに作り、よく冷えたラガービールとともに先ほど食べ終えた。
 そして入浴を済ませて二本目の缶を開けようと冷蔵庫に手を掛けた
とき、リビングのロー・テーブルに置いた電話が鳴った。

 鍋島はビールを持ってテーブルの前に座った。
「はい、もしもし」
《──あ、勝ちゃん》
 鍋島は反射的に俯いた。「真澄か」
 一呼吸分の間があって、それから二人はほぼ同時に言った。
《今日はごめんね》
「昼間は悪かったな」
 自分の声で鍋島の言葉が聞き取れなかったのか、真澄は
《え? なに?》と聞き返したが、鍋島は軽く笑っただけだった。
 そしてまたしばしの沈黙。
《──あ、えっと、あのね、そっちに麗子は来てない?》
「麗子? 来てないけど」鍋島はビールのプルタブを開けた。
「あいつがそう言うてたんか」
《ううん、違う。実は、夕方から何回か麗子の携帯とか研究室に電話
してるんやけど、連絡取れなくて》
「家は」
《家もダメ》
「昼間は会うてへんのか?」
《うん。たぶん大学やと思てたし。そう──じゃ、また明日にでも電話
してみる。別に急ぐ用事があるわけと違うから──》
「あいつとはしばらく会うてないよ」
《え?》
 そういう事実を伝えることが、真澄の心の不安材料を取り除くことだと
鍋島には分かっていた。そう、分かっている。彼女の俺に対する気持ち。
 だから、麗子の所在がはっきりしない今、どうしてもここに電話して
きてしまうのだ。そして俺もつい──
「八月にゼミ仲間の飲み会で会う予定やったんやけど、結局は俺は
行かれへんようになってしもて。せやからもう三ヶ月以上は会うてないな。
電話ではひと月ほど前に喋ったけど」
《あ、そうなん──》
「デートでもしてるんと違うか」
《ええ? そうかな》
「意外そうな声出すなぁ」
《だって……勝ちゃん、知ってるの? 麗子に彼氏がいてるのか
どうか》
「知らんけど」
《勝ちゃんが知らんのやったら、きっとそんな相手いてないんやわ》
「別にいちいち俺に言うとく必要ないと思うけど」
 鍋島はちょっと腹立たしくなってきた。無論、自分と麗子との関係を
恋人同士だと信じて疑わなかった人間はこれまでに何人もいたし、
そう誤解されても仕方のない部分もあるとは思っていたが、ここまで
単純に自分と麗子とを結びつけて考える真澄の発想に少し呆れ、
また一方では重くも感じていた。

 そう、そうだ。分かっている。彼女の俺に対する気持ちは……。

「とにかく、家にいてないからって、俺んとこにいるってのもなあ。
あいつもそこまで寂しい女でもないやろ。勉強漬けの学生のときとは
違うんやから、ちょっとは行動パターンも増えたと思うで」
《……そうやね》
「真澄は? ひょっとしてまだ大阪にいてるんか」
《うん。食事とか買い物とかいろいろして──これから帰るとこ》
「早よ帰らんと家の人が心配するで。その……送ってくってことは
でけへんけど」
《うん、いいねん、分かってる。──じゃあ勝ちゃん、またね》
「ああ。気ィつけて帰れよ」
 受話器を置いたあと、鍋島は思わず大きな溜め息をついた。
 ビールを飲み干して床に大の字に寝そべると、いつものことだが
情けない気分になった。

 ──どうする? でもなぁ……はっきり告白されたわけじゃないしなぁ
……けどもう分かりきってるしなぁ……。──

 そのとき、何をごちゃごちゃ考えてるねん、とでも言うかのように、
突然玄関のチャイムがピンポンピンポンと大きく鳴りだした。
 起き上がって真正面の壁掛け時計を見た。十時半だった。真澄が
京都に帰り着くのはずいぶん遅くなるなと思った。

 空き缶をキッチンに置き、廊下に出て玄関に向かった。

 チェーンを掛けたままで、鍋島はゆっくりとドアを開けた。
「よっ、ごぶさた」
 右手を挙げて敬礼のポーズを取っていたのは、かなり酒に酔った
様子の麗子だった。
「おまえ……」
 直前の真澄との電話のせいで、鍋島の驚きはかなりのものだった。
 ドアノブに手を掛けて赤い顔の麗子を見つめたままで、二の句が
継げないでいた。頭の中が! ! ! ! と? ? ? ? で
埋め尽くされた。
 ひょっとして、真澄は麗子が今夜ここへ来ることを知っていて電話して
きたのか?──そんな、まさかな。

「久しぶりじゃん、キョウダイ」
 ヘラヘラした麗子が脳天気な声でそう言って、ようやく鍋島は我に
返った。
 そして今ひとつまだ腑に落ちない気分のまま、一度ドアを閉めた。
「ちょっと、閉めないでよっ。ひどいじゃないのぉ」
 麗子はドアをどんどんと叩いた。「酔っ払いの女なんて友達じゃない
っての?  この薄情者──」
「やめろ、違うって、チェーン外して開けてやるんやから。静かにしろ」
「あ、ハーイ、分かりました。お巡りさん」
「……下戸のくせに、なんぼ飲んだんや」
 鍋島は舌打ちしてドアを開けた。すると、五秒前の威勢の良さとは
うってかわり、顔面蒼白で今にも死にそうな麗子がなだれ込んできた。
「……気持ち悪い。吐きそう」
「おい、ちょっと、やめろよ。ここで吐くなよ」
「悪い、トイレ借りる──」
 そう言うが早いか、麗子は鍋島を押し退けるようにして部屋に
上がった。
 ここへは何度も来て勝手をよく分かっている彼女は、両手で口許を
押さえたまま一目散にトイレに駆け込んだ。鍋島は麗子が玄関に
放り出した鞄を拾ってあとに続いた。

 人が──とりわけ、いい大人の女が──胃を空っぽにするために
苦しみながらも愚行を繰り返す音など聞きたくもなかったので、鍋島は
ダイニングに入った。キッチンのカウンターに置いた煙草を取って火を
点けると、開けたままにしていたドアの向こうの麗子に言った。
「なあ、真澄がなんべんもおまえに電話してたらしいぞ」
「うるさい! 今、喋れないの……うえっ──」
「……アホやな」
 しばらくするとトイレの水が流れる音がして、麗子が出てきたよう
だった。そのまま彼女はすぐ前の洗面所の蛇口を捻って、どうやら
うがいをしている様子だった。そして鍋島が冷蔵庫からミネラル
ウォーターを出してグラスに注ぎ、それをカウンターに置いたのと同時に
部屋に入ってきた。

「洗面所のデンタルリンス、使わせてもらった」
 麗子はまだ苦虫を噛み潰したようなしかめ面で言うと、カウンターの
椅子に腰を下ろしてグラスを取り、「いただきます」と口もとに運んだ。
「ええ加減にしとけよ。独り暮らしをええことに好き放題やるのは」
 キッチンの鍋島が言った。
「久しぶりに飲んだからよ。空きっ腹だったから、思ったより廻っちゃった
だけ」
「……情けない」
 鍋島は心底そう思っている様子で、腕組みをしながら苦々しく煙草の
煙を吐いた。ところが麗子はまるで意に介していないとでも言いたげに
肩をすくめ、そして言った。
「──さっきの話。真澄がどうしたって?」
「今日、おまえに何回も電話してたみたいやぞ」
「何でだろ」
「こっちに来てたから。何かの展覧会とかで」
「会ったの?」
 鍋島は首を振った。
「どうして」
「急に連絡してこられても無理や」
「つれないのね」
「お言葉ですけど、こっちかて遊んでるわけやないんです」
「少しくらいの時間ならどうにでもなるんじゃないの」
 麗子は不満げに言うとグラスの水を空けた。鍋島が「おかわりは」と
訊いたが彼女は首を振ってカウンター越しにグラスを返した。
 そして鍋島がグラスを洗う様子を頬杖をついて眺めた。
「──ちょっと、ボストンに帰ってこようかと思ってる」
「向こうで何か?」
「別に何も」
「じゃ、こっちで何かあったか」
 鍋島は言うと顔を上げた。「やけ酒もそのせいやな」
「何もないわよ」と麗子は造り笑顔を見せた。
「嘘つけ」
 鍋島はキッチンから出るとさっきのロー・テーブルのところに
行って電話を取った。
「タクシー呼ぶから、帰れ」
「え、何でよ。泊めてよ」麗子は驚いたように振り返った。
「……あのな。俺も一応は男や」
「大丈夫よ。あんたにそんな心配してないって」
 と麗子は笑ったが、鍋島は取り合わなかった。「あかん」
「カタいこと言いっこなし。今までだって何度も同じ部屋で雑魚寝したこと
あるじゃない」
「それでもダメ」
 麗子はバッグを開けた。「あ、そうだ、タクシー代がもう──」
「無かったら俺が出す」
「勝也……」
 麗子は溜め息をついた。「確かに、自分でいい加減なことやってるって
ことは分かってるわ。独身の二十八の女が、いくら友達だからって
こんな時間に酔っ払って男の部屋に押し掛けるなんて。でも正直ちょっと
あんたに会いたくなったから──」
「それやったら前もって連絡して、それから来い。できたら素面(しらふ)
でな」
「──どうしたの? 何を怒ってるのよ」
「怒ってないよ。ただ嫌なだけ」
「え?」
「男と何があったか知らんけど、そのたびに俺のとこに来んなよ」
「勝也……」
 そうなんやろ? とでも言うように鍋島は咥え煙草の口もとに笑みを
浮かべ、目を細めていた。
「そう言うの、いちいち黙って相手できるほど俺もお気楽な毎日を
送ってるわけやない。学生の頃ならまだしも、仕事でいろいろあって
疲れてるときだってあるし、一人で考えたいこともある。誰と喋るのも
嫌なときかてあるんや」
「……ごめん」
「真澄はおまえと連絡が取れへんからって、俺のとこに電話して
来たんや。おまえがここに来てるんやないかと思て」
「……そうなの」
「こんな時間にまさか、他にいくらでも行くとこあるやろってあいつに
言うて電話切ったら、そのあとすぐにおまえが来た。偶然っていうより、
ただ見透かされてるだけのことや。おまえのそういう分かり易すぎる
とこがあさはかにも見えて、なんかちょっと嫌やねん」
「……そうね」
「分かったら帰れ」
 鍋島は暗記しているタクシー会社の番号を押し、耳に当てながら
麗子を見た。
「気分は? もう吹っ飛んだやろ」
「みたいね。頭にもミネラル・ウォーターを浴びせられた感じ」
 麗子は諦め顔で言うとバッグを手に取った。

 


 アパートに戻った芹沢を待っていたのは、一件の留守番電話だった。
《──貴志、姉さんです。……また電話します》
 たったそれだけだったが、芹沢には福岡の実家の様子が容易に
想像がついた。
 大学を出て大阪に来てからの四年あまり、長姉からの電話というと
決まって何か良くない知らせだった。かと言って一刻を争うような重大な
問題はほとんどなく、たとえそうだったとしても、彼がそれを知らされる
のはすべてが終わったあとで、他はたいてい些細なもめ事に関する
愚痴ばかりを彼はこの姉から聞かされているのだった。

 芹沢は自分の方から掛け直すこともせず、風呂から出るとそのまま
ベッドに入った。
 そこへ電話が鳴った。時計を見ると、十一時四十五分だった。
 彼は枕元のテーブルに置いたコードレスの子機を取り、溜め息を
ついてスイッチを入れた。
「芹沢です」
《──貴志? わたしよ》
「ああ……留守中にも掛けてくれてたみたいだけど」
 芹沢は素っ気なく言った。
《う、うん……仕事はどうやろか? 忙しいやろか?》
「忙しいよ。それよりどうした? こんな時間に」
《父さんが倒れたと》
「何だって?」芹沢は起き上がった。
《あ、心配なかよ。ぎっくり腰やけん》
「……脅かすなよ」
 彼は再び枕に身体を預けた。やれやれ、いつもこの調子だ。
《だけん、母さんがえらい気弱になっとるよ。店のことばどうしたら
よかやろうって……》
「義兄(にい)さんがいるじゃないか」
《今日、明日のことやなかよ。力仕事やけん、こん先いつかほんまに
体が動かなくなるとよ。そん時に店ばどうしたらよかか──》
「またその話か。そんなに店を義兄さんに譲るのが嫌なのか? せっかく
一生懸命やってくれてるのに、それじゃあんまりじゃねえか。義理の
息子ったって、姉ちゃんの亭主なんだし、赤の他人に譲るわけじゃ
ねえんだから。姉ちゃんもそこんとこを親父にちゃんと言えよ」

 芹沢の実家は四代続いた老舗の酒屋だった。しかし五代目の芹沢が
店を継がずに警官になったため、五歳年上の姉と結婚した義兄が
脱サラをして、父親と一緒に従業員八人を抱える店を切り盛りして
いるのだった。
《父さんも母さんも、ほんまはあんたに帰ってきてもらいたかとよ》
「親父の勝手だよ。だいいち、俺はこうして──」
《分かってるとよ。父さんたちも、あんたが警官になりよった理由は
よく分かっとるよ、つまらなか意地は感心できなかとは思っとるけど。
今や刑事にもなりよったけん、そぎゃんあんたに返ってきてくれとは
言えなかのよ》
「………………」
《だけん、こんままうちの人に店ば渡して、そんあとでもしあんたが
帰ってきたらって……》

 芹沢には姉の言いたいことは分かっていた。父や母が自分に店を
継いでもらいたいという気持ちでいることは仕方ないとしても、もし
彼自身の口からはっきりとその気のないことを告げさえすれば、結局は
諦めるだろう。そして店を義兄に譲るに違いない。姉はできれば芹沢に
そう言って欲しいのだ。芹沢もまた、自分は警官を辞めるわけには
いかないと思っていたし、店にも故郷にも魅力を感じていなかったから、
そう言うのは簡単だと思った。

 しかし、どういうわけかいざとなったら、何となく気後れしてしまうのだ。
 ひょっとすると自分の中で、小さいながらも株式会社の社長の地位と、
それに伴う財産やちょっとした名声を惜しむ気持ちがあるのだろうかと
考えもした。でもそう考えるとただ笑ってしまう。
 結局は、九州の旧家の長男として生まれ、創業百年をゆうに越える
大店の跡取り息子として育った経験から、家や店を守ることの重要性を
肌で理解することができたし、また警察官という職業が本当に自分に
合っているのかどうかの確信もきちんと得られているわけでもなかった
から、だから、落胆するに決まっている両親を前にして、いまだに
はっきりと言い切ることが出来ないでいたのだ。
「……姉ちゃん」
 よく考えろよ貴志。本当にそれでいいんだな。
《──貴志。あんたの気持ち、うちにはよう分かっとるつもりよ》
「ああ」
 そうだ。おまえには刑事になった目的があるんだろ?
《……近いうちに、いっぺん帰ってきてくれなかかいな?》
「俺は……」
 一生警官をやって行くんだな。
《お金がなかいなら、飛行機代ば送るけん》
「いや、そうじゃないんだ」
 酒屋が嫌で東京の大学に行ったんじゃなかったのか。
《……やっぱり、忙しいのかいな》
 姉の溜め息が彼にも聞こえた。その途端、急にこの姉の喋る
博多弁や、電話の向こうの実家が懐かしく思えてきた。
「──分かったとよ。来月の連休にでも休みば取って帰るから、それで
よかか」
《ごめんね、無理ばっかり言って。じゃ、切るよ。とろか時間から
悪かったね》
「おやすみ」

 電話を切った芹沢は、しばらくの間手に持った受話器をぼんやりと
見つめていた。
 ちょうどそのとき部屋のドアが開いて、真新しいバスローブに身を包んだ
湯上がりの女性が入ってきた。
「──あれ、やだなぁ。誰かと電話?」
 濡れた長い髪をタオルで拭きながら、女はベッドの端っこに腰を下ろした。
「妬けちゃうなぁ。どこの誰?」
「そんなんじゃねえよ」と芹沢は受話器を戻した。「実家からさ」
「ホント? こんなに遅く?」
「嘘なんかつかねえよ。だいいち、俺、あんたに嘘つかなきゃならねえ
理由でもあったっけ?」
 そう言うと芹沢は女をじっと見つめた。
 二時間ほど前に行きつけのバーで声を掛けられたとき、すぐに誰だか
思い出せなかった女だ。よく話を聞くと、三週間前に一度同じ店で知り合って、
そこそこいい雰囲気になったらしい。確か、どこかの企業の社長秘書だとか
言っていた。
「──別にないけど」
 女は少し不機嫌になった。
「ならいいだろ」
 そう言うと芹沢は女の手を取ってそばに引き寄せた。
 それ以上うるさいことを言えないように自分の唇で相手の唇を塞いで、
バスローブの紐を緩めると、女はすぐに従順になった。

 彼は言いようのない自己嫌悪に陥った。
 しかし、やがて忘れてしまった。

 

 冷たい夜の、漂う水面(みなも)に、男は浮かんでいた。
 死んでいるわけではなかったが、確かに死と直面していた。
 頭を何度も殴られて、骨のどれかがずれているようだと、遠い意識の中で
ぼんやり考えていた。肋骨の数本は確実に折れているし、右手の薬指も
さっきからぐらぐらして、感覚などとうの昔になくなっている。
 それから、焼けるような痛みが背中を風呂敷のように覆って離れない。
顔は水の中で、割れた西瓜のようにあらゆる汁だらけだ。

 完全にやられてしまった。
 あの子はどうなったのか。

 今夜、自分たちが連中のところへ行くことを、奴らは完全に分かっていた
ようだ。誰かに連絡を受け、自分とあの子があの時間に現れることを知っていて、
だからあそこで待っていたのだ。

 考えられることは二つ。──彼女か、あの子の姉か。

 あの時、誰かが通報してくれたのだろう。サイレンの音で連中が逃げた際に、
自分とあの子も必死で走った。散々痛めつけられて言うことを聞かなくなった
身体をもつれる足で何とか前に運び、そして転がるように河に落ちたとき、
もうあの子はいなかったように思う。
 その直後に全身を切り裂くような痛みに襲われ、自分は一瞬気を失った。

 ところが、溺れそうな恐怖感で息を吹き返して、河から這い上がったとき、
目の前にはまた奴らがいた。
 そこからは再度の地獄。
 気がつくと、ここまで流れていた。
 水の流れに身体が揺れ、時折顔が水面上に出た。
 ほとんど視覚を失いつつあったが、まだ消えずに残っている見慣れたビルの
灯りやネオン看板がぼんやりと見え、その位置関係でどの辺りを漂っているのかを
何となく認識することができた。

 とにかく、今死ぬわけには行かない。それだけは駄目だ。
 あと百──いや二百メートルも流れれば、何とか管内に入ることができるだろう。
それまでは……

 それまでは、絶対に死ねない。




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はじめまして

はじめまして☆いつも楽しくチェックさせていただいております。ときどき遊びにきたいと思いますので、よろしくお願いしま~す♪まだブログはないんですけど、いろいろ見てると結構楽しそうですね。もしお返事もらえるようでしたらvictory-2.9@ezweb.ne.jpまで、よろしくお願いします☆
  • from ひろこ :
  • 2007/03/06 (13:36) :
  • Edit :
  • Res

こんばんわ。

こんばんわ。
今日も暑くなくよかったです。

いつもながらなかなかいいですねー。
鍋島と麗子、それに真澄。
麗子のけだるさがよく書かれていると思います。
それに切ないような真澄。
鍋島はなかなかしっかりしているのですね。
芹沢の複雑な気持ちもわかるようです。
博多弁ちょっとのところがありましたが(*^_^*)
わたしは関西弁が好きで時々書くのですがきっとおかしいと思います。
最後の事件で、またぴりりとしましたね。

みはるさん、いつもコメントありがとうございます。レスを書いていますのでいつかご覧になってください。
  • from KOZOU :
  • URL :
  • 2009/09/22 (00:10) :
  • Edit :
  • Res

KOZOU様

こんばんは。いつもありがとうございます。

鍋島と麗子、そして真澄、この三人の複雑な関係性は、
今後各々の立場が変わっても、
それぞれに互いへの心理を微妙に変化させながら
続いていきます。
この部分はある意味それを象徴する場面だと思っています。
どうか見守ってやってください。

それから、博多弁がイマイチだったとのこと。
大変申し訳ありません。
お国言葉を間違って解釈するのは良くないことです。
今後気をつけたいと思います。

  • from みはる :
  • 2009/09/23 (02:52)

こんにちわ。

こんにちわ。
こちら昼間はまだ暑いです。

いえいえ、表現が悪かったですね。
9割はいいですよ。(*^_^*)
博多弁は関西弁ほどメジャーではないのによく書かれていると思います。
知らない方言で書くことはとても難しいですね。
一度鹿児島弁で書いて地元の人に笑われました。
同じ九州ですけれど(^_^;)
  • from KOZOU :
  • URL :
  • 2009/09/24 (13:47) :
  • Edit :
  • Res

KOZOU様

こんばんは。返信が遅くなってすいません。

方言は本当に難しいですね。
だけど、その人の人格を表現できるステキな言葉でもありますね。

これからもまたアドバイスください^^
  • from みはる :
  • 2009/09/27 (00:39)

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